「ごうわく」から見る畿内の方言分布

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「ごうわく」とは、志摩弁でもあり、播州弁としても有名な言葉で
「腹が立つ」という意味です。

私ははじめてこの言葉に触れたのは、播州の友人から聞いた言葉で、はじめはどんな意味かわかりませんでした。しかし、映画「WOOD JOB」で、業沸くという言葉がでて、ひょっとして三重県でも使われているのではと思い、調べてみるとおもしろいことがわかりました。

「ごうわく」は播州が先か、三重が先か

「ごうわく」は播州が先か、三重が先かというと、
結論からいえば、どちらかといえば三重が先のようです。

また、「ごうわく」などの方言は、名古屋方面や東京方面でも使われており、九鬼水軍がおこなっていた貿易などを通じて、広まったという見方もあります。

九鬼氏とは?

熊野水軍を率いたとされる「湛増」を祖にもつとも言われており、現在の三重県南部、尾鷲市あたりを(紀伊国牟婁郡九木浦)根城にしていたとされています。

現在でも、「九鬼町」という町名を残しており、近隣には、波切城(なきりじょう)址や鳥羽城址など、九鬼氏の遺跡が沢山残っています。

九鬼氏が歴史の表舞台にでてくるのは、戦国時代、織田方に加勢してからで長島一向一揆では、九鬼氏は織田軍として参戦しており、手柄をたてています。その後、本願寺攻めでも、九鬼氏は活躍し、大砲を乗せた鉄張りの船団で毛利水軍を打ち破る様子が南蛮人の度肝を抜いた記録も残っています。その後も、秀吉の元、朝鮮出兵の際の巨大船団の中心となった「日本丸」を率いたのもこの九鬼水軍でした。しかし他を圧倒する水軍力をもっていた九鬼水軍でしたが関ヶ原で西軍についた九鬼嘉隆(よしたか)が自刃し、東軍方につき家督をついだ守隆が九鬼水軍を引き継ぐも、守隆の家督争いが原因で内陸への移封となり、水軍としての力を完全に失ってしまった。

移封される際、家督をついだ五男の九鬼久隆が三田藩に、三男の九鬼隆季が丹後綾部藩に移封となった際、多くの家臣も一緒に移動したことから、方言も次第にうつっていったのではないかとされています。

しかし、この説だと、「ごうわく」のエリアとは、全く合致しません。

もう少し掘り下げて調べてみました。

「関西弁」は3つに大別できる

関東の人がいういわゆる関西弁は、関西の言葉を総称するものですので、近畿の方言とは必ずしも一致しない点があります。

そもそも、「関西」という言葉よりも、近畿の方が歴史的に使われていることも多く、京阪神エリアの人も関西よりも近畿の方が身近に感じる部分も多いです。

畿内の方言を大別すると、大阪弁・京言葉・伊勢弁の3つに分けられます。それぞれを個別にみていくと、細かな分布はありますが、大きくわけてこのようになります。

関東の人からすれば、大阪弁としては、異質に感じる「船場言葉」は、大阪弁というよりは京言葉に近く、近江商人が船場で商いをしていたことから、船場周辺のみで使われていましたが今ではもう使う人も限られています。

大阪弁 京言葉 伊勢弁
書かない 書けへん 書けへん
書けない 書かれへん 書けへん・よう書かん
行く 行きはる 行かはる 行きなはる
しないで せんといて しやんといて
居る いてる いる おる
行こう 行こか 行こまい
~だから ~やよって
~やさかい
~やもんで
強調する語尾 ~ねん ~のさ
語尾 ~やで ~やに
疲れた しんどい えらい・かいだるい
ものもらい めばちこ めいぼ めっぽ・めぼ
たくさん ぎょうさん ようさん ようけ

方言分布図

奥村三雄氏による方言の1968年に出された区分図(引用元:wikipedia)

橙…中近畿式方言

緑…外近畿式方言 南近畿式
茶…外近畿式方言 西近畿式
青…外近畿式方言 北近畿式
灰…外近畿式方言 非近畿式

中近畿(京阪神)と外近畿(京阪神以外)の方言の違いを区分案として提示しています。

播州弁

播州弁は中国方言に属する但馬弁・岡山弁と、京都的な丹波弁、大阪的な摂津弁と接しており、 兵庫県方言文法の研究者である鎌田良二は、兵庫の方言の代表格といえば、播州弁であるとしています。

播州弁は東西の河川の流域によって大きく方言帯がわかれており、

西播弁(たつの、相生、赤穂、宍粟、佐用など)
東播弁(加古川、姫路、夢前など)

都市化している場所は、都市部との交流が盛んになり、どちらかといえば大阪弁の影響を受けているエリアもでてきていますが、西播と岡山の県境などは、峠で隔たれておらず岡山と接触が容易な場所は岡山弁の影響も色濃いです。

地理的に近い、淡路島は、どちらかといえば播州弁よりも紀州や徳島弁の影響が色濃いとされています。

余談:げんごのしま

興味深い点が三重県南部と、淡路島が同じ方言分布担っている点や、非近畿とされているエリアや、空白地帯が一部ある点が興味深い。こういった周囲と隔絶した言語を話す集団のことを言語島(げんごのしま)と言います。

畿内で有名なのは、「奥吉野方言」で、奈良県南部に位置しますが、どちらかといえば、いわゆる関西圏の方言とは少しイントネーションが違い東京式のアクセントを使っていると言われています。

天川村洞川や十津川村などもそもひとつ

  • 雑巾 ⇒ どおきん
  • 貸して ⇒ かいせ
  • 明日 ⇒ あいさ
  • 座布団 ⇒ だぶとん

その他、「目」の事を「めえ」、「歯」のことを「はあ」というような、1泊語の語尾を伸ばす長音化も奥吉野方言では見られないのも特徴です。

他にも、「橋」のことを「は↑し↓」と語尾をさげる京阪式と異なり、「は↓し↑」と東京式に言い、また「箸」のこともまた逆にアクセントをつけます。

十津川村は、壬申の乱の際、のちの天武天皇となる大海人皇子に味方し、大友皇子の軍勢を破ったことから、免租地となり、明治まで1200年もの間、自治による免租地としての歴史を歩んだ独特の地域でもある。

実際に行けばわかるのだが、このあたりの地形は地図で見るよりも険しく、人を寄せ付けない隔絶感が半端ない場所です。南北朝時代に吉野に都をおいた後醍醐帝や、足利尊氏と戦った新田義貞などの関東軍との交流の中で、関東風のアクセントが残ったのではないかと考えます。