適材適所で無理なく生きることを植物から学んだ

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今年に入ってから、久居にある空き地を利用して
「さやばたけ」という家庭菜園をやっています。

コンセプトは「素人が独学で挑戦する自然農」で
無農薬、できるだけ無肥料か緑肥をつかった有機栽培を実践しています。

初の試みですし、もともとが住宅地の空き地です。

たしかに10年ほど前までは花などを育てていたようですが、
とはいえ、10年以上、放棄地になっていた土地は、土が死んでカッチカチです。

掘っても掘っても、石や瓦や陶器のようなものがでてきました。

そんななか、耕し、米ぬかなどを入れてなんとか夏野菜を少しづつとれています。

生きるということに素直

植物を育てていて、根っこの種類があることや
根っこの重要性に改めて考えさせられます。

「雑草」と一口で言うものの、土に根を張り、
水を得て、そこから養分を蓄え育っています。

生えているものは、ドクダミやミントならまだしも
スギナやセイタカアワダチソウは食べられませんので、生えても嬉しくありませんが

草刈りをしていて彼らの
「生きることへの直向きさ」をヒシヒシと感じます。

さらに、そんな雑草を刈ってすき込むことで、人が化成肥料で撒くよりも、
ずっと多くのミネラル分などを土中に入れてくれますし
彼らの生きた証である「根」は彼らを刈ったあとでも、土中にいる微生物の住処になります。

自然界には、何一つムダなものなどないんだなと感じます。

植物は生きる理由なんか考えない

人間は、植物や動物と違って無駄に脳が肥大化してしまったせいで
余計なことを考えてしまいます。

「生きる意味」
「世間体」
「地位・名誉」

など、動植物は一切考えていません。

本来の「生まれてきて死んでいく」だけのただの生命サイクルにおいて
生きる意味なんてないだなと思います。

私がこの世に生まれてきた理由もないし、
あなたがこの世に存在する理由もない。

私やあなたが、突然いなくなって死んでしまったところで
世の中は何も変わらないし、日常が続くだけです。

それは人でも道端の雑草でも同じです

生きていることに価値がある

雑草は、空気中からミネラルなどの養分を生成し土中に蓄えます。

たとえ、枯れたとしてもそれは、微生物の餌となります。
雑草自身が生きる意味を考えなくとも、サイクルの中で自然と意味は生まれます。

人も同じで、生きているだけで何かの役には立つこともあります。

「何の価値もない人間はいないんだ」とよく言いますが
本当にそのとおりで、99%の人にとって役立たずでも、
一人にとって非常に救いになる人もいます。

何かひとつだけを敵にするような価値観は、
生きることを辛く、難しくするだけです。

敵をつくらない生き方

敵をつくることはかんたんでも
味方を増やすことは困難です。

最近、コロナ騒動で、様々なイベントごとが中止になっていき
仕事も縮小したり、お店が閉店したりとストレスになることも多く
ある意味、心の修行だなと感じています。

正直、死者も増えていないし、感染者数が増えてもいないのに

「なぜマスゴミのいうことを信じるのだろう」
「自粛しているやつはバカなのか?」
「感染者が増えていると感じるやつは小5の算数からやりなおせ」

と思うこのごろですが、そんなことを面と向かって指摘しようもんなら
袋叩きにあうのは必定です。

「間違っていることを間違っていると指摘しない」

これは植物も同じです。

隣に場違いなものが生えても、
土壌に合わない野菜を育てようとしても
せっかく育っているのに刈られようとしても

何の文句もいいません。

私達人間が雑草を敵視しているだけで、雑草は人を敵視していないのです。

それでは、雑草を敵視せず、味方にする方法はないものか。

そう考えることは人にもいえます。

今まで「敵」だと思っている人であっても
敵視せずに、味方に取り込む方法を考える。

対人ですので植物のように文句をいわないわけではないため
対応は難しいところはありますが・・・。

1本ライ麦の根の長さは11200km!

五木寛之氏の『人間の覚悟』(新潮新書)に1本のライ麦の話がでてきます。

30センチ四方、深さ56センチの木箱を作り、そこに砂だけ入れて1本のライ麦の苗を植える。水だけで育てて3ヶ月後に箱から取り出して砂をすべて振るい落し、広がっている根の長さを計測してみたところ、根毛の先にある顕微鏡でしか見えないようなものまで全部合わせると、何と1万1200キロメートルもあったという。1本のライ麦が砂の中から水だけ吸い上げ、60日間も生き続けるために、シベリア鉄道をはるかに超えるくらいの長さの根を張りめぐらせ、その命を支えていた。

そう考えたら、その麦は色がさえないとか、穂が付いていないとか文句を言う気にはなれません。そこには行き続けるというだけで、ものすごい努力があった

1本の麦でさえ、それくらいの根を見えないところまで張りめぐらせて必死でいることを思えば、私たち人間が今日1日を生きるということは、麦1本に比べてじつに大きなこの体ですから、どのくらいの根を人間関係に、世の中に、宇宙に張りめぐらせていることか、想像するだけでも気が遠くなります。

=中略=

たった1本の麦でも、その大変な命の営みの偉大さを思えばその麦に対してお前は出来が良くないとか、もう少し見ばえがよかったらいいのにとか言えたのもではありません

1日生きるだけでもものすごいことをしている。人は生きているだけで偉大なことだと思います。その人が貧しく無名で、生きがいがないように思えても、1日、1ヶ月、1年、もし30年も生きたとすれば、それだけでもものすごい重みがあるのです。

生きているだけで本当に素晴らしく偉大なのです。

お金持ちにならなくても
人の約に立とうと思えなくても

いいんです。

適材適所で無理をせず「生きる」

見えないところで努力して生きるということに素直になることが
植物にとっての根であり、根を張るから、養分を得られるし
養分を得ることができるから、花が咲く。

しかし、養分をいくら得ようとしても、その土壌があまりにも乏しく貧素であったり
その花には適さない土壌だった場合、
そもそも発芽しませんし、根も張らず、花も咲きません。

人には適材適所というものがあります。

「このように生きなければならない」とか
「こうするべきである」という思い込みから生じる固定概念は

あわない土壌で花を咲かそうと必死になっているのと同じで、無駄な努力なのです。

雑草であろうが野菜であろうが、
酸性土壌には酸性土壌に合う植物の方が育ちやすいです。
アルカリ性土壌も同じくです。

無理に土壌を改良しようと、化成肥料を大量に投入しても
1年、2年はそれで育ったところで、段々と収穫できなくなり、
農薬を散布して、肥料を入れないとまともに育たないとか
肥料をいれてもまともに育たないような荒れた土壌になります。
そうやって「砂漠」に向かっていくのです。

この「土壌」は、生きる糧を生み出す「会社」や「家庭」という
人にとっての生きている環境に置き換えて考えると同じことが言えます。

無理に環境を変えようとしてませんか?
周囲の人の考え方を変えようとしてませんか?

そうやってすることは、土壌に化成肥料や農薬をぶちこむのと同じなのです。

土壌にいる微生物や虫たち、菌類、植物と共生しようとすることで
自然にまかせて無理なく野菜を育てることができるのと同じように
環境にあわせて共生し生きていく。

とはいえ、それができればどれだけ楽かなぁ~・・・。